2012年06月15日
【写真】Mさんが暮らす部屋には、家族の写真が大切に飾られていた=大阪市住吉区
JR天王寺駅前の歩道橋にほぼ毎日立っていた黒人男性を見かけなくなって1年ほどたった。首から下げた募金箱には、「難民支援」の文字。「日本にも難民がいることを知ってほしい」と話していた。
名前はM、アフリカのウガンダ出身だ。日本で難民認定を求めたが、認められず国外退去処分となった。本来なら入国管理局の施設に収容されるのだが、入管に毎月出頭することなどを条件に、拘束を一時的に解かれている「仮放免」の身だ。
聞いていた携帯電話に連絡し、大阪市住吉区の団地を訪ねた。台所と4畳半ほどの小さな部屋は、きれいに片づけられ、褐色の肌の子どもたちが並ぶ色あせた写真が飾られていた。幼いころに兄弟と撮った一枚だという。
「1日立っていると足は痛くなるし……」。活動をやめた理由を、投げやりな調子で説明した。酔っぱらいにからまれたことや、警察官が来て署に連れて行かれたこともあったという。
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日本語は話せないが、丁寧な英語で身の上を語った。ウガンダで1974年、裕福な家庭に生まれた。大学卒業後、首都のカンパラの大学で講師を務め、より給料が良い会社に就職した。その傍ら、05年に民主化を求めていた野党に入党した。
その年の終わりから再三、複数の男に車で拉致され、組織について詰問されたり、活動を辞めるよう脅されたりした。腕に注射を打たれ、意識を失ったまま草むらに放置されたこともあったという。
06年末、反政府活動家を一斉に逮捕するという情報を聞き、国外に逃れることを決意した。旅行会社に金を払い、日本の短期滞在ビザをとった。カナダや米国に行きたかったが、日本のビザが一番早く降りた。
翌年、関西空港から入国。愛知県内の塗装工場などで働いた。初めての肉体労働だった。だが、08年3月、超過滞在の容疑で大阪入国管理局に逮捕された。そこで、難民認定の手続きをとったが、入管側はウガンダでの政治活動を疑い、出稼ぎのために来日したと判断した。
茨木市の西日本入国管理センターなどに約9カ月間収容され、08年12月に仮放免が認められた。その後、天王寺駅などで、難民支援を訴える活動を約1年続けていた。
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いまは一日中、部屋でCNNやインターネットを見て過ごす。日本にいる間、祖国で兄が暴漢に襲われ、まもなくショックで母親が亡くなった。Mさんの政治活動が原因だった。それ以来、家族は電話に出てくれない。
祖国に家を2軒持っているので、その家賃を弁護士に送金させ、かろうじて暮らしている。難民不認定処分の取り消しを求めて、日本国と裁判で争っていることだけが、生きがいだ。
昨年、法務省が判断した難民申請者(異議申し立てを除く)は2119人で、難民と認定したのは7人だけ。全国の入管施設には、難民と認められず、退去強制処分となった人たちが多く収容されている。
難民たちは、祖国へ帰れば身が危ないと、帰国に応じず、収容が長びきがちだ。仮放免が認められることも増えているが、その間は、就労は認められない。
Mさんは、網戸のない窓から入ってくる虫を追い払いながら、いらだたしそうに言った。「自分の人生に何の意味があるのか、分からなくなる時がある」
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日本は「難民鎖国」と言われるほど、難民の受け入れには厳しい。国連が定める「世界難民の日」(6月20日)を前に、大阪に暮らす難民申請者や、彼らを支援する人たちを3回に分けて紹介します。
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【キーワード】難民認定制度
難民認定制度 日本は1981年、国連難民条約に加入。人種や宗教、政治的な理由で母国で迫害を受ける可能性がある難民を、保護する義務がある。難民かどうかは、入管側の調査を経て法相が判断する。認められず、国外退去処分となると、原則として入管の施設に収容されるが、裁判で争うなど直ちに送還できない場合、保証金を払うなどして仮放免が認められることもある。仮放免で暮らす外国人は、全国に数百人いるとみられる。