(15/3/8 日本経済新聞)
連載コラム『中外時評』 論説委員 小林 省太
昨年、日本で何人が難民に認定されたのか。その数字が間もなく発表される。申請者はこれまでの最高だった2013年の3260人を大きく超える5千人。認定者は13年の6人は上回るものの2桁そこそこだという。認定率は1%にも遠く満たない。
たとえば昨年の韓国の申請は2896人、認定は94人。欧米の主要国は例年数千人規模、あるいは1万人以上の難民を受け入れている。また問題になるだろう。なぜ日本の認定者は話にならぬほど少ないのか、と。
難民の定義は「難民条約」にある。人種、宗教、特定の社会集団に属することなどを理由に、母国で迫害を受けるなどして国外に逃れ、母国に帰れなかったり帰ることを希望しなかったりする人のことだ。
各国は申請を受けて審査し、定義に当てはまれば難民と認定し、そうでなければ退(しりぞ)ける。
条約に加盟するというのは、この仕組みを受け入れるということである。どうしてかくも大きな差が出るのか。
法務省の君塚宏・難民認定室長は言う。「認定数が少ないと批判されてもきちんと釈明してこなかったのは、『由(よ)らしむべし知らしむべからず』の姿勢だったと反省している」
日本の難民政策はベールに包まれていた。そもそも難民認定の基準がよく分からない。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のM・リンデンバウアー駐日代表は30年にわたって多くの国と難民政策で協力関係を築き、1年半前に着任した。まず驚いたのが政府から伝えられる情報の少なさだったという。「認定数は妥当なのか。 認否の理由を知らされない以上、評価することはできない」
こうした政府の姿勢が変わるとすればいいことだ。君塚室長が説明する「認定者が少ない理由」は幾つかある。
一つは、シリアのような紛争地域から逃れた人々である。「多くは砲声におののいて国外に『退避』した一般市民であり、紛争が終われば母国に帰るべき人々ではないのか。 難民とは、母国に2度と戻れない『亡命』のような形を指すものだと条約を解釈している」
「退避」は難民ではない。解釈は、「紛争や迫害、人権侵害で移動を強いられた人が世界に5120万人(13年末)いる」というUNHCRの現状認識とはかけ離れる。むろんUNHCRは「シリアから逃れた人は、命を脅かされる厳しい状況を考慮すれば多くが難民と認定されるべきだ」(リンデンバウアー氏)という立場だ。
認定者の少なさに関わる特殊事情も法務省は説明する。
就労目当ての偽装難民。村民のけんかや借金取りたてで「殺すぞ」と脅されたという「迫害」を訴える人々。何度でも再申請できる日本の制度を悪用した時間稼ぎ。要は、いかに難民に値しない申請が多いかーー。
しかし、その陰で保護されるべき難民が見落とされているという懸念は拭(ぬぐ)えない。
「プロボノ」という言葉がある。各分野のプロが専門知識を生かして無報酬で行う社会活動のことだが、寺澤幸裕弁護士は認定を求める難民の支援を10年続けてきた。認定と不認定、どちらの経験も持っている。
「母国で迫害があったことを証明するのは極めて難しい。 命からがら逃げてきた人に立証しろといってもハードルが高すぎる」。そうだろう。彼らが携(たずさ)えてきたのは多くは脅かされたという記憶だけなのだから。
一方には増え続ける申請に対応するための効率。もう一方に難民保護という理念に沿った透明性、分かりやすさ。認定制度にはどちらも求められている。当然、政府の立場とUNHCRや弁護士、難民支援団体の立場には差がある。
「最後まで違いは残るとしても、お互い議論をし切磋琢磨(せっさたくま)を重ねていきたい」と君塚室長は言う。そうであってほしいが、そのためには政府から正確な情報が公開されることが前提条件となろう。
UNHCRは難民施策に経験と知識を持つ国連機関である。しかしリンデンバウアー氏の話は、日本政府から情報がないという「振り出し」に何度も何度も戻った。そこに感じるのは強い不満である。
もちろん、「由らしむべし」からの脱却が大切なのはUNHCRのためだけなのではない。
国民が難民についてもっと知るために欠かせないからである。