実態知られぬ難民収容施設 「自由な国のはず…」 処遇改善求めハンストも

(11/2/26 京都新聞)

「自由な国と思って日本に来たのに…」。昨年12月中旬、大阪市内の飲食店。カースト制度による迫害を理由に難民認定申請中のネパール人男性のGさん(49)が、2カ月前に仮放免されるまで収容されていた法務省の外国人収容施設「西日本入国管理センター」の実態を話し始めた。
処遇環境が悪く、本来保護されるべき難民申請者らを犯罪者のように扱っているとして、支援団体が「外国人差別の象徴」と非難してきた。
家族を残して2002年に来日、自動車工場で働いていたが、在留資格がなく06年から2回、計約2年間収容された。「透明の窓がなく一度も外が見えなかった」 「体調を崩しても処方されるのは簡単な飲み薬だけ」。勧めた食事には手を付けず、流ちょうな日本語で語気を荒らげた。

強制送還を前提に在留資格がない難民申請者や不法滞在者を長期収容する全国三つの施設の一つで、1995年に大阪府茨木市にオープンした。
現在約90人の収容者の2割ほどを難民申請者が占め、アジアやアフリカ出身者が特に多い。
情報公開が進まず実態が表に出たことはほとんどない。正面玄関の「許可がない取材は禁止」との威圧的な看板が目につく。
Gさんによると、センターは4ブロックに分かれ、1ブロックに十数部屋ある。国籍が違い言葉が通じない人同士が約10畳の部屋に10人近く収容されたことも。1日に6時間は部屋から出られるが、高い壁で囲まれた運動場と卓球台がある集会所しかなく、読書とテレビで時間をつぶした。
窓はすりガラスで外が見えず、テレビで四季を感じるしかなかった。「時間の無駄だった」との言葉が突き刺さる。体調が悪くても診察は申請から数日かかるなど、医療面の不備も多いという。
「日本では独りぼっち」。寂しさを紛らそうと記者に話し続ける。いつ強制送還されるか分からずおびえる毎日だった。プライバシーがなく精神に異常をきたす人も多い。あるイラン人は洗剤を飲み自殺を図った。
数年間収容され続ける人もいたが、昨年3月、自らが中心になり約70人で10日ほどハンガーストライキを実行。長期収容は改善されつつある。

昨年12月21日、関西の五つの支援団体や学生ら約30人が集まり十数人に面会した。要望を聞いてセンターに改善を求めると同時に、収容者の名簿を作ることで強制送還しないよう監視するのが目的だ。
しかし、同行取材しようと記者が身分証と申請書を渡したところ、別室に連れて行かれ「保安上の理由」から取材拒否を告げられた。センターは過去一度もマスコミの取材を許可したことがない。支援者らは、鍵が掛かった小部屋で看守立ち会いのもとアクリル板越しに面会したという。
一方、団体交渉では、全面すりガラスだった窓を透明に換えるとの長年の要望が通り、安心した表情を浮かべる人もいた。
日本が81年に加盟した難民条約は、母国で迫害される恐れのある人を難民と定義し各国に保護を求めている。諸外国には収容者が自由に出入りできる施設もあり、人権保護に努めているが、日本は認定数そのものが著しく少ない。
一斉面会の当日、軍政下のミャンマーから逃れた30代の男性が仮放免された。反政府運動に関わり、家族を残し来日。空港で難民申請した直後に収容されてから半年がたっていた。「日本で初めて外の空気を吸った」。
片言の日本語でつぶやき町に消えていった。

【図】2009年の主要国の難民認定者数

注:新聞では名前が表記されていましたが、ここではイニシャルとさせていただきます。