(19/6/19 朝日新聞夕刊)
20日は国連が定めた「世界難民の日」。日本の難民認定数はほかの先進国と大きく差があり、狭き門だ。母国から日本に逃れ、難民申請した外国人の中には、難民に認められるか不安を抱えながら、窮屈なくらしを強いられている人がいる。 (山城響)
教育 せめてもの「救い」 中東出身の女児
「スポーツと音楽が好き」。今年4月、中東出身の女児は関西地方の小学校に通い始めた。生活になじんだ様子に、同居する50代の伯父と70代の祖母はうれしそうだ。
紛争が続く祖国で政府から迫害を受け、伯父の右手中指は拷問で不自然に曲がったままだ。一族はオランダやドイツ、カナダなどに離散。3人はオランダに逃げる予定だったが、ブローカーに成田経由で向かうようだまされ、日本で足止めされた。伯父は「親やきょうだいと離ればなれにさせてしまっためいが、日本で教育を受けられることはせめてもの救いだ」と話す。
実は入学の際にひともんちゃくあった。この女児の就学などを支援する市民団体RAFIQ(ラフィク 在日難民との共生ネットワーク)によると、自治体窓口は当初「住民票が必要」とし、手続きが進まなかった。本来、義務教育は在留資格の有無にかかわらず外国人の子どもにも保障される。RAFIQ共同代表の田中惠子さんは「制度を理解していない職員に権利が奪われたかもしれなかった」と憤る。
日本語のみの保護者便り、宗教上食べられない豚肉が多い給食。他にも様々な課題はあるが、RAFIQや家族に支えられながら通学する女児。「学校は『トモダチ』がいて楽しい」と笑顔を見せる。「これ覚えた!『すいとう(水筒)』」と広げた学習中には、強い筆圧で書かれた日本語がびっしりと並んでいた。
在留資格なく仕事就けず 中東出身の30代
出身国、名前、年齢、住所――。関西地方に住む中東出身の30代男性は新聞では明かせないことがたくさんある。政治的な迫害を受け、命の危険が迫って母国を出たという。だが、逃げてきた日本でも、不安な日々が続いている。
母国で大学を卒業し、国家の仕事に就いた。周囲はうらやましがったが、仕事内容は人道上受け入れがたかった。離職を考えると行動を監視された。ブローカーに接触し、預金と愛車を売って工面した約150万円で、自分とよく似た顔の男のパスポートを手に入れた。「一番安く、最短で行くなら日本だ」。提案をのみ、その男になりきった。
だが、日本で入国拒否され、2年間収容された。半年ほど前からは、一時的に拘束を解かれる「仮放免」の身。収容中に日本語をマスターしたが、在留資格はないので、仕事に就けない。銀行口座も持てず、携帯電話の契約もできない。
日本の難民認定のハードルが高いことは、来日してから知った。実情を調べず、日本に来たのが間違いだったのか。「あと何年、こんな生活が続くのか」。日本で覚えた「自業自得」という言葉も頭をよぎる。
23日、大阪でパネルや写真展示
大阪市北区の市立住まい情報センターで23日午前11時半、「世界難民の日関西集会2019」がある。難民を巡るパネルや展示、アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)の藤本伸樹研究員らの講演など。資料代千円、学生500円。問い合わせはRAFIQ(06・6335・4440)。
難民認定
国連が1951年に採択した難民条約では「人種や宗教、政治的な理由などで迫害される恐れがあり母国を離れた人」を難民と定義。日本は紛争から逃れただけでは難民と認めないなど条約を厳格に解釈している。
昨年は1万493人が難民認定を申請。認められたのは42人で、国籍別では、コンゴ民主共和国が13人▽イエメン、エチオピア5人▽アフガニスタン、中国4人▽イラン、シリア3人など。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の統計によると、2017年に主要7カ国(G7)で最も多くの難民を認めたのドイツは14万人を超えた。
「難民認定 いつまで待てば… 日本に逃れても続く苦境」への1件のフィードバック
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