(10/9/5~9/9 京都新聞)
1) 不認定のトルコ籍クルド人
2) 認定申請中のウガンダ人
3) 生活保護に頼る元記者
4) 特定活動のミャンマー人
5) 服役繰り返すベトナム難民
ハリル・チカン(50)は白い入れ歯が目立つ。「治安当局に連行され、歯を何本も折られたんだ。睾丸(こうがん)もつぶされて摘出手術を受けた」。埼玉県内のアパートで、険しい表情で話し始めた。
トルコの少数民族クルド人。独立国家樹立を目指して政府と武力衝突を繰り返すクルド労働者党(PKK)の支援にかかわり、身の危険を感じて1994年、日本に逃れた。法相に難民認定を申請したが、認められず、不法滞在で強制送還された。母国で待っていたのが拷問だったという。
2005年に再び来日して難民申請し、やはり不認定に。裁判で争ったものの、
「供述は変遷があり信用できず、就労目的で来日したと疑わざるを得ない」と判断され、敗訴が確定した。現在、3回目の難民申請中だ。
この間、不法滞在を理由に度々、妻子ともども法務省入国管理局の収容施設に身柄を拘束された。仮放免になっても、在留資格がないため仕事に就けず、同胞からの借金などで生計をつなぐ。
「日本政府は人間として生きる権利を認めてくれない。トルコで肉体的拷問に遭い、日本では精神的拷問を受けている」
テロ対策
日本の難民認定者は欧米諸国に比べ、けた違いに少ない。しかも、その大半はミャンマー国籍で、他国出身の認定例はわずかだ。
人権団体によると、特にトルコのクルド人は欧州諸国では多数が難民認定されているのに、日本では認定者はいない。不認定を不服として提訴したクルド人について、法務省はトルコ治安当局の協力を得て身元を調査するなど、敵対的にも見える姿勢を取っている。
同省は「難民申請では個別の事情を審査しており、特定の国の人に厳しくすることはない」(難民認定室)と説明する。だが、クルド難民弁護団の大橋毅は「日本にとってトルコは友好国で、米中枢同時テロ以降はテロ対策で協力している。トルコ政府批判を意味する難民認定は、できないのだろう」と指摘。
同省などから独立した難民認定機関の必要性を訴える。
夢はない
欧州連合(EU)加盟を目指すトルコ政府は近年、クルド語の使用を認める範囲を広げるなど、人権問題の改善を進めている。しかし、「トルコでは毎日のようにクルド人の命が失われている」とチカン。
長男は日本で不認定とされた後、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に難民と認められ、ニュージーランドで暮らす。「日本にいても夢はない。ニュージーランドに行きたい」。疲れた顔でチカンはつぶやいた。(敬称略、共同=原真)
× ×
「難民鎖国」と批判されてきた日本だが、新たな受け入れの動きも出ている。
保護を求めて来日した人々を訪ねる。
<メモ>昨年の認定者は30人
国連難民条約は、政治的意見や人種などを理由に母国で迫害される恐れから海外へ脱出した人を難民と定義、各国に保護を求めている。2009年、日本が認定した難民は30人。これに対し、認定者が多かったのはマレーシアの約3万5千人、エクアドル2万6千人、米国2万人など。
【写真】家族と古いアパートで暮らすハリル・チカン。「日本政府はクルド人をテロリスト扱いしている」と憤る=埼玉県内
「ウガンダでも日本でも、僕は存在していないみたいだ」。20代のキンボワ・ワハブ(仮名)は手で顔を覆った。母国での迫害から逃れ、日本に来て4年。法務省施設への収容を経て、大阪府内で強制送還の恐怖と生活苦に耐えながら、難民認定申請の結果を待つ。
首都カンパラ生まれ。銀行員を目指し、地元の大学に進んだ。学内にあった野党系組織に入り、2006年の大統領選で不正がないか監視に当たった。秘密警察に目を付けられ、車に連れ込まれて「組織から離れないと命はない」と脅された。黒光りする銃身が今も目に焼き付いている。
知人から国外脱出を勧められ、たまたま一番早くビザが手に入った日本へ向かった。
木や石
難民認定の制度を知らず、申請しないまま、在留期間を過ぎても愛知県内の知り合いのウガンダ人宅に身を寄せていた。07年、交通事故に巻き込まれ、不法残留が発覚。大阪府茨木市の西日本入国管理センターに約8カ月、収容された。
「助けを求めに来て、拘束されるなんて」。ほかの国に行けばよかったと後悔した。センターでは「木や石になった気分だった」。大部屋に10人以上が押し込められ、1人のスペースは1畳ほど。ベッドや布団はなく、毛布にくるまって床で寝た。運動は制限され、すりガラスで外の景色は見えない。体調不良を訴えると、頭痛でも腹痛でも同じ薬を処方された。
「この建物からいつ出られるのか、分からなくて、気が遠くなった。自分の人生がどうなるのか不安でならなかった」
不透明
センターには、外国人支援団体「ウィズ(西日本入管センターを考える会)」のメンバーらが面会に訪れ、相談に乗ってくれた。その一人、辻田之子の尽力もあって、08年に仮放免された。
支援者の助言で収容中に難民申請したものの、今年初めに退けられ、法相に異議を申し立てた。不認定になれば、再び収容され、母国に送還される恐れもある。法務省によると、収容されている難民申請者は昨年末現在、全国で332人に上る。辻田は「収容の基準も期間もはっきりしないなど、難民に関する日本の制度はとにかく不透明」と批判する。
キンボワの将来も不透明だ。外務省が難民申請者に支給する保護費が唯一の収入だが、月約8万5千円で、暮らしは厳しい。「もしウガンダの政情が好転して、帰れるようになったら…」。しばらく遠くを見てから、照れくさそうに早口で言った。「母に会いたい」(敬称略、共同=岩橋拓郎)
<メモ>少ない仮滞在許可
2005年施行の改正入管難民法は、不法滞在状態の難民申請者に「仮滞在」を認める制度を導入したが、許可されたのは09年、対象者の7%。不許可の場合、原則として収容され、不認定なら強制送還もあり得る。難民申請者は09年に1388人と増加傾向で、認定手続きは異議を含め平均2年以上(08年法務省調査)に長期化している。
【写真】独り暮らしの部屋で食事の準備をするキンボワ・ワハブ(仮名)=大阪府内
アフリカ出身で40代のジョゼフ・ボンゴ(仮名)は2008年、日本で難民と認定された。「常に監獄に入っているような気持ちだったから、やっと自由を感じた」。しかし、数少ない難民認定者になっても、生活の展望は開けない。
母国では新聞記者。政府の人権侵害を告発する記事を書いた。軍に自宅を急襲され、国内を逃げ回る。当時、ジャーナリストが次々と逮捕され拷問に遭い、殺される人もいた。「安全な所へ行きたい」。パスポートを偽造し、英国へ脱出しようとしたが、渡航手続きが進まない。07年、先にビザが出た日本へ渡った。
言葉の壁
成田空港に着いた途端、不法入国容疑で身柄を拘束された。「難民申請しに来た。本名ではパスポートを取れない」と説明しても、法務省入国管理局の係官は聞き入れてくれない。約10カ月、入管施設に収容された。
ストレスで体重が激減。「日本なら保護してもらえると思っていたのに。最悪の経験だ」。いったん不認定とされたものの、異議を申し立て、仮放免後にようやく法相から難民認定された。
認定者には、アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)が外務省などの委託で、原則半年間の日本語教育や生活案内を無償提供している。だが、ボンゴは入所時期が合わず、東京で市民団体主催の日本語教室に通いながら、職を探した。
折からの金融危機で求人は少なく、言葉の壁もあって、仕事は見つからない。
「認定されたら働けるので、ハローワークに何度も行っているんだが」。今も生活保護に頼る状態が続いている。
家族一緒に
日本には知人はほとんどおらず、家にこもりがちだ。地元のボランティアの人たちと花火に出掛けたりするのが、ささやかな楽しみという。
心配なのは、母国に残した家族。妻は逮捕されたこともある。日本に呼び寄せたいが、パスポート取得が難しい上、航空券を用意する経済的余裕もない。
「望むのは、普通に暮らすことだけ。難民の家族が一緒になれるよう、日本政府も手助けしてほしい」と訴える。
ボンゴのように、母国で活躍していながら、日本では能力を十分に発揮できていない難民は多い。失望して、難民への支援が手厚い欧米諸国に移住する認定者もいる。
NPO法人、難民支援協会の鹿島美穂子は「難民認定がなかなか自立につながっていない。集中的、専門的な日本語教育や就労支援が必要だ」と強調する。(敬称略、共同=原真)
<メモ>実態に合わないとの指摘も
2005年、異議の審査に第三者が関与する「難民審査参与員」制度が発足したものの、異議が却下された後、裁判で認定された例も出ている。インドシナ難民の定住を促進してきたRHQは03年、条約難民(難民認定者)の支援も始めたが、語学教育中心の半年間のプログラムが終わると、政府による支援策はほとんどない。
【写真】「日本で生活するには言葉が大きな壁。難民申請した段階から日本語教育を受けられるようにしてほしい」と話すジョゼフ・ボンゴ(仮名)=東京・四谷の難民支援協会
「お父さんと一緒に住みたい」。そう言って涙を流した長女(11)のことを思うと、胸がいっぱいになる。ミャンマーの民主化活動家マウン・マウン(49)=仮名=は難民申請が認められず、在留特別許可で当初与えられたのは、妻子の呼び寄せが困難な在留資格だった。家族一緒の暮らしを12年間、待ち続けている。
自由求めて
1988年の民主化デモに参加。船の通信士だった98年、乗っていた貨物船が偶然、千葉に寄港した。日本なら自由に政治活動ができると考え、そのままとどまった。
結婚して、わずか9カ月後の決断だった。活動が忙しく、寂しさを感じることもなかったが、翌年に長女が生まれ、心境が一変。2006年に在留特別許可で「特定活動」の在留資格を得ると、皿洗いのアルバイトで航空券代をためて、迫害の恐れのないシンガポールで娘と対面を果たした。
自分を見つめる幼いわが子。ぐっと抱き締めた。「家族のことが一番大事」。いつか必ず、日本に招くと心に決めた。
将来に不安
難民と認定されなかったが、人道的配慮から在留を特別に許可された場合、以前は難民認定者と同じ「定住者」の在留資格になるのが一般的だった。家族の呼び寄せが比較的容易で、生活保護も受給できる安定した資格だ。ところが法務省は05年以降、在日10年以内なら「定住者」ではなく、「母国で生じた特別な事情により当分の間、本邦に在留する者」向けの「特定活動」に切り替えた。
法務省は「難民申請した人にふさわしい在留資格」(難民認定室)と説明するが、在日ビルマ人難民申請弁護団の近藤博徳は「母国の状況の変化によっては帰国させられる恐れがある。難民らが将来に不安を感じ、大きなストレスになっている」と批判する。実際、昨春には、家族を呼び寄せられないことを悲観した男性が自殺した。
05~09年に「特定活動」とされたミャンマー人は、弁護団が把握しているだけで71人。うち37人が昨年12月、「定住者」への在留資格変更を集団で申請した。マウンも記者会見で「妻子の呼び寄せを求めたが、却下された。娘と会えず、とても悲しい」と訴えた。
今年6月、「定住者」への資格変更がようやく認められ、マウンはあらためて呼び寄せの手続きを取っている。日本語の勉強を始めた長女は、瞬く間に上手になった。「家族が来たら、鎌倉の大仏に連れていきたい」。毎年のように娘の誕生日に参拝し、「家族と一緒に住めますように」と祈り続けてきた場所だ。(敬称略、共同=若松亮太)
<メモ>人道的配慮が激増
不法滞在の外国人らに特別な事情があるとき、法相は強制送還せずに、日本在留を特別に許可することができる。難民不認定でも人道的配慮で在留特別許可を出すケースは2008年以降に激増。09年は501人に達し、9割がミャンマー国籍だった。
【写真】「特定活動」から「定住者」への在留資格変更を集団申請、記者会見するミャンマー人ら(手前)=09年12月、東京・霞が関
アパートの一室は異臭が充満していた。畳には生ごみや、向精神薬のカプセルが散らばる。至る所、ゴキブリがはい回り、指に上ってくる。
違法薬物使用や窃盗を重ねたベトナム難民グエン・バン・ダイ(49)=仮名=が一人で暮らす大阪府内のアパート。清潔にする気力もなく、病院で月に1回もらう薬で心の安定を保っている。
出産費用に困り
1989年にベトナムを出国。たどり着いた香港の難民キャンプで、友人に勧められ麻薬を覚えた。たばこに入れ、水で少し湿らせて、ゆっくりゆっくり吸った。「気持ち良くて、頭の中が空を飛ぶようだった」
95年に妻子と来日。アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)で日本語教育などを受けた後、千葉県の田舎に移り住んだ。近所に頼れる同胞もおらず、妻の出産費用約20万円が重くのしかかる。スーパーで米やおかずをカートに入れたまま、外に出た。「持っているお金は少しだけ。悪いと思ったけど」。初めての窃盗だった。
その後、離婚し、友人宅で薬物を使って逮捕され、服役した。出所後も洋酒や化粧品を盗んで生計を立てた。再び捕まって刑務所へ。在留資格を失い、大阪府茨木市の西日本入国管理センターに収容された。
母国は送還拒否
政府が不法滞在の取り締まりを強めたこともあり、2002年から05年にかけて、同センターに入ったベトナム難民は30余人に上る。強制送還に向けた収容だったが、ベトナム当局は受け入れを拒否。収容は最長2年を超え、入所者が仮放免などを求めてハンガーストライキに踏み切り、問題化した。結局、グエンらは在留特別許可を得た。
市民団体「すべての外国人労働者とその家族の人権を守る関西ネットワーク(RINK)」の草加道常は「インドシナ難民の中には、孤立して貧困に陥り、犯罪に走る人もいる。コミュニティーをつくって助け合う仕組みが必要だ」と指摘する。
政府は9月末、タイの難民キャンプにいるミャンマー人を日本に受け入れる「難民第三国定住」を試験的に始める。RHQによる半年間の語学教育など、インドシナ難民と同様の定住支援策を不十分とみる専門家も多い。
今、グエンの部屋を訪ねる人はまれだ。「薬とか窃盗とか、怖いから友達いない」。犯罪につながりかねない人間関係を避けるように過ごす。月10万円余りの生活保護費は、大半が暇つぶしのパチンコ代に消える。「寂しい。僕、ここに一人だけ」(敬称略、共同=若松亮太)
<メモ>一部は第三国定住
日本は1978~2005年、ベトナム、ラオス、カンボジアからのインドシナ難民約1万1千人を受け入れた。その一部は、近隣国に逃れた難民を別の国が迎える第三国定住の形だった。インドシナ難民は日本語能力の不足などから、今も厳しい生活を送っている人が少なくない。
【写真】錠剤が散乱する自室の畳に座り込むグエン・バン・ダイ(仮名)=大阪府内