ガラン島旧難民キャンプレビュー

ボートピープル

こんにちは、RAFIQ会員兼GLORRYのメンバーのあきつです。
この夏から交換留学でシンガポールに来ています。今回はそのシンガポールからフェリーで1時間ほどの、インドネシアの小さな島にある旧難民キャンプを訪れた際のレビューをさせていただきます。
添付している写真もご参考いただけると具体的にイメージしやすいと思います!

ガラン旧ベトナム難民キャンプの歴史的な背景

1870年代、冷戦の影響で東南アジア地域の社会主義化を目論むソ連と、それを食い止めようとする資本主義のアメリカによって、ベトナムは1つの国でありながら、社会主義の北部と資本主義の南部に分断され、2つの大国の代理戦争が行われていました。ベトナム戦争と言われるやつです。続いてラオス、カンボジアも社会主義国家となり、これらの3国からインドシナ難民と言われる5000万人以上の難民が発生しました。
ベトナムからボートで海に逃れた一部のインドシナ難民は、わたしが今回訪れたインドネシアのガラン島にも到着しました。難民キャンプ開設の1979年から閉設の1996年まで、25万人ものベトナム難民が短期または長期にわたり滞在したという記録があります。

現地の様子

使われなくなって20年以上が経っているため、施設はボロボロになっていましたが、そのほとんどが今も資料として残っています。敷地としては、車で1つずつ設備を見て回るのに2時間くらい所要する広さだったので、1つの街のようなイメージ。居住区は、短期滞在者用エリアと長期滞在者用エリアに分かれていて、他には小さな学校、病院、それに教会、お寺、モスクなどの宗教的な建物が残っていました。ベーシックヒューマンニーズと言われるような設備が最低限あるだけ、という印象を受けました。

その中で最も目立っていたのが宗教建築でした。教会、お寺、モスクの3つとも、大きく、豪華な装飾が施されており、先の見えない生活を送る中で当時の人々にとって祈ることがどれほど大切だったかを物語っていました。

感じたこと

大国の利害抗争に巻き込まれて、突然母国から逃れざるを得なくなって、何も無い知らない土地での生活を強いられた人々は、どれ程悔しかったのだろうと、見学から1週間が経った今でも想像します。家族や友達、仕事や学校に行く日々を捨てて、いつか元の生活に戻れるのかなと期待したり、新しくボートピープルが流れ着くたびにまた絶望したり。ついには母国に帰れないまま難民キャンプで亡くなった人も大勢います。
当時のソ連にとって、世界中が社会主義の成功を知ることは個人の人権や小国の主権より大切だったかもしれないし、当時のアメリカにとって、ソ連に負けないことは国家の第一優先事項だったかもしれない。大国に潰されないためには、東南アジア諸国のような小国は従うしかなかったのかもしれない。でも、その陰に何千万人もの被害者がいることはどうしても正当化できないと思います。
戦争は国家の利益のため、領土や国民を守るために避けられないことがある、と主張する人もいますが、わたしは賛成しません。戦争の裏にはいつも罪のない人々の犠牲があって、その1つの形として難民がいます。そして、これが過去の出来事ではなく、今私たちが暮らす現在においてもなお、進行形の出来事であるということは、決して誇れることではありません。

最後に

この難民キャンプは、1989年に国連主催のインドシナ難民問題国際会議で包括的行動計画が採択され、北米やオーストラリアを中心とした第三国への定住が大掛かりになされたことにより、閉鎖されました。結局母国の土を二度と踏むことなく、第三国で一生を終えた人々もいます。

普段からひとつの国から来たひとりの難民と関わることはあっても、ひとつの地域に一度に大量の難民がいたことを実感したのは今回が初めてで、改めて「難民」と「戦争」関係についてたくさん考えました。この文章が、読んでくださった皆さんにとって、どうしたら難民問題は無くなるのか、について考えるきっかけになれば幸いです。

SNSでもご購読できます。